寂しがり

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日記が出てきたので記録しておきます。

2017/10/02/22:42の日記

 

2017年10月2日05:43、母方の祖母が永眠しました。79歳でした。

前日夜から泊まりに行っていた母から、6時にならないうちに電話があった。夜中に起こされてもいいように両親の寝室で眠っていた私や弟も、コールの音で目が覚めて、そのことだけで電話の内容を聞かなくても何が起こったのか理解できた。正直、自分がどういう反応をするのか、自分でも予想できていなかったが、驚くほど自然に涙が出てきてほんの数分ほど声を殺して泣いた。

とりあえず学校に行く気は起きないので、すぐにベッドをでて出勤する父を見送り、なんやかんやしてから弟を連れて母の実家へ向かう。学校へは結局父から連絡を入れてもらった。(後で今日は午前休だったとわかって一安心。とりあえず出席は足りそう。)おそらくばたばたしているだろうから、今日いる親族分の昼食を調達してバスに乗り込んだ。
祖父母宅のごちゃついた居間の、仏壇の前に急遽作られたスペースに、祖母が安置されていた。やけに豪奢なおふとんやさかさまの屏風、目の前に置かれたお線香。私自身はカトリックの家に育っているので、仏教式の弔い方はさっぱりわからなかった。出迎えてくれた祖父に「どうやってご挨拶をしたらいいの」と聞いて、お線香のあげかたを教えてもらった。対面した祖母の頬はこけてもう肉が全然なくて、よく頑張ったね、と祖父と二人して声をかけた。

今日の私の仕事は、昼食の調達とお団子作りだったと言っていい。
枕団子というらしいそれは故人が死後の世界へ旅をするときに食べるのだそうだ。白玉粉で茹でて6つお供えするように、とのことだったので、じゃあ私が作ろうかとその役を買って出た。お金の関わることや知り合いへの連絡なんかはみんな大人の仕事だったので、手持ち無沙汰だったから。
粉が多いので12個作ってから綺麗なものを選ぶ、ということにして、弟を呼んで少し手伝わせながら白くて丸い団子をこねた。両手でこねるとなぜか丸くならずにそろばんの玉みたいな形になる。センスないなあ、と笑いながら、一応ちゃんと体裁を整えお鍋で茹でる。できあがった団子はわりときれいな丸い形をしていて、祖母の好きそうな華やかなお皿に乗せてお供えしてきた。

これが私の、最初で最後、祖母に振る舞った手料理だ。
祖母は、私が10歳くらいの頃に認知症を発症した。闘病実に12年。本当に長かったと思う。
認知症になる前の祖母は、苛烈で、男前で、良くも悪くも強い女性だった。実の母から捨てられたも同然の形で養子に出され、厳格な養父母のもとで育てられた女性で、相当複雑なコンプレックス持ちだった。弱音を吐けない性格で、いつもまわりに攻撃的なことを言って、そのくせ本当はものすごく繊細な人だった。母や私の面倒臭い性格の原点は祖母だと思う、勝手ながら。
でも、初孫だった私のことをそれはそれは可愛がってくれて、あなたは賢い子、可愛い子、とっても優秀な子と大事にしてくれたことを、私は本当に感謝している。
プライドの高かった祖母に関する思い出といえば、信じられないような値段のジュエリーを持っていたこととか、毎週土曜日不二家に孫達を連れて行っては「好きなケーキを一つ、それから好きなお菓子を好きな数」買い与えていたこと、あとはなんだったか忘れたけどなにかを買ってもらうのを遠慮した私に言った「お金ならあるのよ!」というセリフ、といった具合にわりととんでもないのが多い。猛烈な浪費家だった祖母の買い物全部で多分私があともう一周学校に通えたはずだ。一方で、弟が生まれたばかりの頃寂しさを持て余していた私のために、何冊も絵本を読み聞かせてくれた、というとても母性的なエピソードもあったりする。私がくまが好き、とわかるなり祖母が買い与えてくれたハロッズ社の水色のくまのぬいぐるみは、私の一番付き合いの長い友達だ。
こんな具合に祖母のことを思い出せるのは、孫の中では私だけである。私より下のいとこたちは、みんな祖母のしゃっきりしていた頃より、病気になってわけがわからなくなってしまった祖母を見ている時間の方がだいぶ長い。当たり前だ、12年も病気してたんだものね。

ここまで書いた時点で思考がとっちらかってダメになってきたので、また続きを書きます。落ち着いてからにするかもしれないけど。またその時に。(10/2)